化粧室の洗面台の鏡に映る自分は、なんとも情けない顔をしていた。社会の波に揉まれて随分と図太くなったと思っていたが、彼のことになると、こんなにも脆くなる。せめて花巻の前でくらいは取り繕わなくてはと、目を閉じてゆっくりと深呼吸をする。しっかりと鏡の中の自分と目を合わせて、小さく「よし」と呟くと、はいつもの表情を取り戻して席へと戻った。
「…え」
戻った先にいたのは、花巻だけではなかった。彼の隣に、もう一人座っている。4年会っていなくても、その後姿だけで分かってしまった。ほんの数分前、日本に帰ってくると聞かされた国見が、どういうわけかテーブルについてホルモン焼を頬張っている。そんな国見を見つめて立ち尽くすに気付いたのは、花巻だった。
「びっくりした?」
悪戯が成功したとばかりに笑顔で問う花巻に、は返事を返すことができない。呆然とするの腕を引いて、花巻はやや強引に席に座らせた。の斜め前には、スーツ姿の国見がネクタイを緩めて座っている。4年ぶりに会った国見は、相変わらず眠たそうな表情だけれど、最後に会ったときよりずっと大人びていた。
「……」
と国見の視線が、交錯する。ドクリと、心臓が音を立てた。
「じゃ、俺はここで退散するわ」
「え、ちょっと!花巻!?」
二人の様子を見ていた花巻が、上着と鞄を持って席を立つ。引き留めようとするの耳元で何事か小さく囁いて、花巻は伝票を片手に去って行った。それを見送ったは数秒の間そのままだったが、意を決したように振り返って元の席に腰を下ろす。一連の動作を見つめていた国見と、バチリと目が合った。
「…久しぶりだね」
「はい」
4年ぶりに聞いた、たったその一言に目頭が熱くなる。それをぐっと我慢して、は何とか笑顔を作ることに成功した。
「いつ帰ってきたの?」
「たった今です。花巻さんに空港着いたら、すぐに来いって言われたんで」
よく見ると、国見の傍らには大きな黒いスーツケースとビジネスバッグが置かれていた。それを見つめながら、は沈黙を嫌うように「仕事は順調?」だとか「アメリカ生活はどうだった?」だとか当たり障りのない話題を次々と振り、国見はそれに淡々と答える。しかし、ふと訪れた静寂に、今度は国見が先に口を開いた。
「…さっき」
「え?」
「さっき、花巻さんに何言われたんですか?」
国見の言う“さっき”とは、花巻が去り際に囁いたあの一言だろう。その内容を国見に告げるのは憚れて、は「大したことじゃないよ」と誤魔化す。そんなに、国見はぐっと眉を顰めた。この表情は何度か見たことがある、不機嫌になるときの合図だ。4年経っても変わらないその癖に、は思わずクスリと笑ってしまった。
「…やっと笑った」
「え?」
「全然笑ってくれないから、俺に会いたくなかったのかと思ってました」
半分正解を言い当てられて、はぐっと詰まる。会いたくなかったけど、会いたかったのだ。はギュッと膝の上に置いた手を見つめたまま、顔を上げることができなかった。今、彼の顔を見たら、きっと泣いてしまう。それはのなけなしのプライドが許さなかったし、泣いて国見を困らせたくもなかった。しばらく、二人の間に沈黙がおりる。向こう側の座敷席で、会社の飲み会らしい客たちが上司の挨拶に拍手を送っていた。
「さん」
4年ぶりに、彼の声で呼ばれた自分の名前。すぐ近くから聞こえたその声に思わず顔を上げると、彼はいつの間にか席を移動しての隣の椅子に腰かけている。ジッとこちらを見つめる国見の真剣な表情に、の瞳からこれまで耐えていた涙がついにポロリと零れた。
「なんで泣くんですか」
「これは…違う、の」
必死に涙を堪えようとするが、雫は堰を切ったように溢れて止まらない。こんなにも、まだ彼を好きなのだと思い知らされたような気がした。
「さん、まだ俺のこと好きですよね」
疑問形ではない、確信めいたその発言にはビクリと肩を震わせた。その通りだけれど、それを認めて重い女だと呆れられるのが怖い。肯定も否定もできないまま、は早くこの時間が過ぎるのを願った。せめて、思い出の中でくらいイイ女でいたかったのに。嫌われる前に彼の前から姿を消してしまいたい。
「俺は今もさんのこと好きですよ。花巻さんとの内緒話に嫉妬するくらいには」
「……え」
自分に都合のいい言葉が耳に飛び込んできて恐る恐る顔を上げると、そこには真剣なまなざしの国見がいた。真っ直ぐにこちらを見つめる彼から、目が離せない。喉が張り付いたように乾いていて、声を出すこともできない。縛られたように動けないにそっと手を伸ばして、国見は頬を伝う涙を指で拭った。
「ちゃんと、の口から聞かせて」
いつかのように、さん付けも敬語もなくした口調で国見が催促する。目まぐるしい展開に頭が追い付かないが、確かに国見はを好きだと言った。過去形ではなく、今も好きだと言ったのだ。ようやくそれを理解した途端、の目からはボロボロと大粒の涙が溢れだした。
「」
「好き、だよ。私もずっと英が好き…!」
嗚咽を交えながらだったけれど、必死で言葉を紡いだ。彼に好きだと伝えられることが、どうしようもなく嬉しかった。よくできましたとばかりに、国見はの頭を撫でて引き寄せる。向かい側の席から、冷やかすような声が聞こえた。
「あー…場所変えたほうがいいか」
周りを見渡して、国見は小さく呟く。は泣きじゃくっていて気づいていないが、客も店員も何事かと二人の様子に興味津々だった。居酒屋で男女が抱き合っていれば、酔っ払いたちの格好の的になるのは、ある意味仕方がないが。国見はスーツケースを片手にを立たせて、足早に店を後にする。
「あのさ、」
夜道を二人で歩きながら、ようやく泣きやんだに国見は少し言いずらそうに口を開いた。不思議そうにその続きを待つをチラリと見る。
「俺、今日ホテルとってるんだけど…来る?」
その意味を汲み取って、は顔を赤くしながらも小さく頷いて国見の手を握りしめる。4年ぶりに並んだ二つの影は、ゆっくりと闇に溶けていった。
命懸けのラブレター