「…ひっく」
誰もいない教室にのしゃっくりが虚しく響く。何の前触れもなく始まったそれと格闘すること早30分。いい加減、そろそろ止まってくれてもいいと思うのだが、の横隔膜は未だ痙攣を続けている。
「あー、もう…ひっく」
苦しいわけでも痛いわけでもないが、定期的にやってくるそれにイライラは募るばかりだ。おかげで、日直の最後の仕事である日誌はまったくゴールが見えてこない。ついに、しゃっくりが止まるまで日誌を書くことを諦めたは、シャーペンを放り投げて机に突っ伏した。
「?」
しばらくそうしていると、誰もいないはずの教室に自分の名前が響いた。のろのろと身体を起こせば、そこには怪訝そうな顔のクラスメイトの姿。
「あー…国見だ」
「なに、具合悪いの?」
「ううん、ただ…ひっく…しゃっくりが止まんなくって」
部活中らしい国見は忘れ物でも取りに来たのだろうと当たりをつけるが、彼は自分の席には向かわずの方へとやって来た。
「…?ひっく」
首を傾げるから、また小さくしゃっくりが漏れる。それを聞いた国見は、少し考えた仕草を見せた。
「息止めたらいいとか聞いたことあるけど」
「それ試したけどダメだった…ひっく」
もこのしゃっくりを止めるために様々な努力をしたのだ。冷たい水を飲んだり、唾を何回も飲み込んでみたり。聞いたことがある民間療法いくつか試してみたけれど、残念ながらどれも効果を得ることはできずに今に至っている。
「ふぅん。じゃあ…」
そう言って、背の高い国見がの机に手をついて上半身を屈めた。見上げているとの距離が一気に近くなる。
「くに…」
彼の名を言い終える前に、の唇は国見のそれに塞がれていた。突然の出来事に何が起きているか分からないは、目の前にある意外に長い睫毛を見つめるしかなかった。ほんの数秒のキス。固まるの耳にリップ音が届いたのと同時に、唇から熱が離れていく。
「え、ちょっ…えぇ!?」
驚きで言葉にならない。そんなを見ながら、国見はいつもどおり飄々とした表情だ。
「どう?」
「え!なにが!?」
まさかキスの感想を求められているのだろうか。キスされたことで頭がいっぱいなは、唇に感じた温度を思い出して顔を真っ赤にした。
「しゃっくり止まった?」
「え!しゃっくり!?…あ、止まったかも」
そういえば、キスをされた後はしゃっくりをしていない気がする。というか、しゃっくりに悩まされていたことなんて、一瞬忘れていた。そう言うと、国見は満足そうに笑った。
「驚いたら止まるっていうのは本当みたいだな。じゃあ俺、部活戻るから」
「あ、うん。頑張って」
結局何のために戻ってきたのか分からないままだったが、ヒラリと手を振って教室を出ていく国見の背中を見送った。また静まり返った教室で、は再び机に突っ伏する。
「…なんなの」
しゃっくりは止まったというのに、また新たな悩みが増えてしまった。放置されたままの日誌は当分、書けそうになかった。
◆ ◆ ◆
それから一週間後の水曜日。放課後、友人たちからカラオケに誘われたけれど、そんな気分にはなれなくて、は誰もいない教室で物思いに耽っていた。思い出すのは、あのキス。
にとって国見英とは、休み時間に他愛のない話をしたり、一緒にキャラメル味のお菓子を食べたりする仲がいいクラスメイトだった。それが、あのキスですっかり変わってしまった。正確にいえば変わったのはだけで、国見はあの日以降もこれまでどおりに接してくる。こちらは目が合うだけで、声を聴くだけで、心臓が飛び跳ねるというのに。
そもそも、あのキスにはどんな意味があったのだろう。まさか、本当にしゃっくりを止めるためだけに?最初こそは、もしかしたら国見は自分のことを好きなのかもしれないなんて思ったりもしたけれど、国見があまりにも普通すぎて、今は戸惑いの方が大きい。だけがあのキスに翻弄されていて、国見にとっては何の意味も持たないんだと思ったら、なんだか苦しかった。
「?」
その声に目をやると、ちょうど国見が教室に入ってくるところだった。教室にふたりきり、の脳裏にはあの日のキスが蘇ってきて自然と頬が熱くなる。国見を直視できなくて、はそっと視線を外した。
「何してんの?またしゃっくり止まんないなら、止めてやろうか?」
すぐ傍で聞こえた声にの肩がビクリと揺れる。顔を上げると、いつの間にか国見はの机に手をついて上半身を屈めていた。「しゃっくりを止めてやる」だなんて冗談めかした言葉だったけれど、その瞳は挑発するようにを見つめている。ただでさえ、この一週間は国見に振り回されたというのに、このままやられっぱなしになるのは癪だった。
「口実がなきゃ、キスしてくれないの?」
だから、も国見と真っ直ぐ視線を合わせて強気にそう言ってみた。普段は眠たげな彼の瞳に広がっているのは、驚きと戸惑い。そんな中に、ほんの少し期待が混じっているのを見つけて、の胸が温かくなる。国見にとっても、あのキスは特別だったんだと知れた気がした。
机に置かれた国見の手に自分の手を添えて、催促してみる。すると、国見の顔が赤くなったかと思ったら、次の瞬間にはの唇は塞がれていた。あのときのような触れるだけの優しいキスではなくて、少し強引で噛みつくようなキス。なかなか唇を離してくれないものだから、はだんだん呼吸が苦しくなってきて、触れていた国見の手を叩いてそれを伝える。
「…っ」
ようやく最後にリップ音を響かせて解放されたかと思ったら、息を整える間もなく、今度は身体ごと抱きしめられた。首元にかかる国見の息が、くすぐったくて恥ずかしい。
「ねぇ…あのとき、なんでキスしたの?」
「に俺のこと意識してほしかったから。まさか、こんな反撃されるとは思ってなかったけど」
後半はちょっと拗ねたように言うものだから、クスクスと笑ってしまう。国見は少し身体を離して、眉間に皺を寄せながら「笑うなよ」と言った。
「ふふ…ごめん。でも、国見のそういうトコ好きだなと思って」
「……期待していいワケ?」
「うん、国見の作戦勝ちみたい」
頬に添えられた手を合図に、はゆっくりと瞳を閉じた。
ここでキスして