ボロボロと流れる涙を拭うこともせず、私は一人帰り道を歩いていた。周りの視線なんか気にならないくらい頭に血が上っていて、これほど怒りを覚えたことがあっただろうか。それほどまでに、私にとってあの言葉は許せないものだった。
『好きだよ。のことがすごく好き』
いつも不細工と貶して笑う及川が、私を軽く抱きしめて甘い声でそう言った。不細工とか可愛くないと言われるのはもう慣れたし、事実そうだと思っているから、我慢できる。だけど、“好き”だなんて冗談は、私にとって残酷すぎた。
どんなに暴言を吐かれようとも、私は及川徹が好きだ。それは、彼がイケメンだからでもバレーが上手いからでもない。群がる女の子たちに愛想よく笑顔で手を振る優しい及川徹を演じるその陰で、誰よりも貪欲に上を目指して努力する姿を見て嫌いになどなれなかった。時折見せる恐いくらいに真剣な眼差しに囚われて、身動きがとれない。
だけど、及川に私を見てほしいと思ったことは一度もない。彼がそう言ったように私が及川を好きになること自体おこがましいし、この想いは打ち明けることなく、いつかそっと昇華するつもりだ。それなのに。
「、好きだよ!」
あの日から、及川は私に不細工と言う代わりに“好き”という単語を発するようになった。一体、どんな心境の変化だろうか。まさか本気で言っているわけはないので、私がそれを真に受けるかどうか賭けの対象にでもされているのだろう。賭けの相手が岩泉たちだったらショックだから、真相を確かめることはしない。ただ、泣きたくなる衝動を抑えて彼が飽きるのを待つだけだ。
そう決心していつもどおりにマネの仕事を淡々とこなす毎日を過ごしていたけれど、及川は未だ飽きる様子もなく“好き”と言葉を紡ぐ。そろそろ私の精神も限界なわけで、正直部活に行くのがしんどい。そして、私はマネージャーになって初めて部活をサボった。
◆ ◆ ◆
「あれ、は…?」
もう練習が始まるというのに、今日はの姿を見ていない。いつもなら、練習開始5分前には綺麗にネットも張られて、ちょうどいい具合の空気が入ったボールが用意されていて、ベンチにはふかふかのタオルやドリンクが置いてあって、首からストップウォッチをぶら下げたがいるはずなのに。クラスの用事か何かで遅れているのだろうか?
「ねぇ。来てないんだけど何か知らない?松つん、同じクラスでしょ?」
「いや、HR終わって教室出ていくのは見たけど」
「体調悪くて帰ったとか?」
「それならそう言うだろ。アイツ、そういうとこ真面目だし」
は多少体調が悪くても無理して部活に来るような人間だ。岩ちゃんの言うとおり、部活に出られないようなら誰かに伝言くらいするはずだ。なのに、誰も知らないってどういうこと?
「あの…」
思案する俺たちに話しかけてきたのは金田一で、言いづらそうに視線を左右に揺らす。その後ろに立っている国見ちゃんもどこか後ろめたいような、そんな顔をしていた。嫌な、予感。
「さっき、さんが校門から出ていくの見たんです。多分、帰ったんじゃないかと…」
「え…それって、部活サボったってこと?」
に限ってそんなことないと信じたいけれど、何も言わずに部活に来ていない彼女と金田一の目撃証言から導き出される答えはそれしか思い浮かばなかった。みんな俺と同じことを考えているのか、複雑そうな顔はするものの否定の言葉は出てこない。嫌な沈黙が俺たちを包む。
「っ、とにかく考えても仕方ないべ!練習するぞ!」
一番最初に立ち直ったのは岩ちゃんだった。マネージャーがいないからといって練習をしない理由にはならない。岩ちゃんの声に「そうだね」と頷いてコートに入るけれど、やっぱりのことが頭から離れなかった。
それからも、が部活に来ない日々が続いた。ただ、朝練のときも放課後練のときも、体育館に行けば綺麗にネットも張られて、ちょうどいい具合の空気が入ったボールが用意されていて、ベンチにはふかふかのタオルやドリンクが置いてある。だけど、首からストップウォッチをぶら下げただけがいない。どうやら、は誰よりも早く体育館に来て準備をし、俺たちが体育館に来る前に姿を消しているようだった。
こうして仕事をしてくれているということはマネージャーが嫌になったわけではないのだろうけど、三年からの電話やメールには一切応じてくれないし、が特に可愛がっていた国見ちゃんや金田一からのメールにも返信がないらしい。教室でもチャイムが鳴ると同時にどこかへ行ってしまって、同じクラスの松つんですら話せていない状態だ。岩ちゃんたちは少し様子を見ようと言ったけれど、俺はそうもいかない。だって、が部活に来なくなったのは――。
「…俺のせい、だよね」
早朝6時。まだネットも張られていない体育館でポツリと呟く。早くに準備をしに来ているであろうを待ち伏せするため、俺は朝練が始まる一時間前に体育館にやって来たのだ。が部活に来なくなった理由はきっと俺にあるから、とにかく彼女と話がしたかった。
20分ほど経った頃、ガラガラと体育館の扉が開いて両手にタオルを抱えたが姿を見せた。俺がいるなんて思ってもいないだろう彼女は、どこか懐かしそうに体育館を見渡しながら足を踏み入れたけれど、その足は俺を見つけたことで止まってしまった。零れそうなほど大きく見開かれた目が俺を捉えている。
「及川…なんで…」
「こうでもしないと、逃げちゃうじゃん」
「……っ」
あぁ、俺はにそんな顔をさせてばかりだ。内心でそんな自嘲をしながら一歩ずつに近づくと、彼女は強張った顔でタオルを抱えている両手に力を込めた。ゆっくりとの正面に立って、数日ぶりの彼女を見つめる。戸惑ったように視線を伏せるは、少し痩せたかもしれない。
「ねぇ、なんで部活来なくなったの?」
「……」
「やっぱり俺のせい?俺がのこと好きなのって迷惑?」
俺の問いにの肩が小さく震えた。それは肯定しているようなもので、俺の好意が彼女を困らせていることは十分に分かった。だけど、これまで散々暴言を吐いていた頃はこんなことなかったのに、好意を伝えた途端に逃げ出した理由が分からなかった。
「…して」
「え?」
が何事が呟いたけれど、小さすぎる声を拾うことができなかった。思わず聞き返すと、は俯いていた顔を勢いよく上げてキッと目を吊り上げた。
「いい加減にして!及川は私で遊んでそんなに楽しいの!?」
広い広い体育館に響く声。初めて聞いたかもしれないの荒げた声に呆気にとられる。肩で大きく息をするは真っ赤な顔で目を潤ませて俺を睨んでいて、松つんに言われた言葉を思い出した。そうだ、は俺の告白をからかわれていると思っているのだ。
「ちょ、待ってよ!俺は本気だよ!!」
「これまで散々不細工だとか言っておいて、そんなの信じられるわけないでしょ!馬鹿にしてんの!?」
「今までのことは謝るよ!でも、を好きだって気付いたのは最近だったから!」
「勝手なことばっかり言わないでよ!私が、どれだけ…!」
俺と視線を合わせたの両の目からボロボロと涙が零れた。その涙は、彼女の手にあるタオルに染み込んでいく。
「その瞳はバレーにだけ向けてればいいのに、なんで…」
が言っている意味がよく分からない。再び俯いてしまった彼女の髪をそっと撫でてみたら、ビクリと震えはしたものの手を払われたりはしなかった。俺が本気だってことは分かってもらえたのだろうか。
「ねぇ、?俺の気持ちは本当だから、ちゃんと考えてほしいんだ」
「……そんなの無駄よ」
「っ、なんで…!」
「ちゃんと考えなくても、私もアンタが好きだからよ!」
「へ…」
間抜けな声を上げた俺は、の言葉をもう一度脳内で再生させる。俺の耳が正常であれば、は俺を好きだと言わなかっただろうか?
「え、ちょっと待って!あれほど嫌がらせしてたのに俺のこと好きなの!?まさかってマ…っ!?」
俺の言葉は最後まで続かず、見事な膝蹴りが鳩尾に入ってそのまま床にうずくまった。痛みに悶えながらを見上げると、彼女は俺を一睨みした後、持っていたタオルをベンチに置いて体育館を出て行ってしまった。だけど、彼女はすぐに体育館に戻ってきて、ドリンクやネットの準備をテキパキと進めていく。
「、今日からはちゃんと部活来てくれるんだよね?」
「…マネージャーだからね」
ポツリとそう返事したに頬が緩んだ。あぁ、ようやく彼女が戻ってくる。
午前6時の舞踏会