放課後、私は男子バレー部が使っている体育館にきていた。マネージャーでもない私がここにいるのは然程珍しいことではなく、顔見知りの部員たちは不思議がることもなく挨拶してくれるし、三年生たちとは部活が始まるまでの間に他愛のない話で盛り上がったりするのが常だ。そんな風に頻繁に体育館を訪れる理由は、私の彼氏がこのバレー部に所属しているからである。

さ…それ、赤葦にやるつもり?」

「当たり前でしょ。赤葦以外の誰にあげると思うの」

引き攣った顔でそう呟いた木葉の視線は、私の手元に釘付けだ。小さな袋にコロンと入っているのは、今日の調理実習で作ったマドレーヌ。彼氏や気になっている人にあげるんだと張り切っている友人たちの例にもれず、私も彼氏に食べてもらおうと気合いを入れて作り、ラッピングまで施した。きっと練習でお腹を空かせるであろう赤葦にこれを渡すために、私は体育館にやって来たのだ。

「ちょっと待って。マドレーヌってさ、そんな焦げ目ついてるモンだっけ…?」

「俺がクラスの女子にもらったやつと何か違う!」

「木兎、サラッと自慢すんな。つーか、ラッピングのリボンが固結びなんだけど」

私の乙女心が詰まったマドレーヌに対して、三年どもが好き放題言い出した。だけど、彼らの言ったことはすべて事実だから、私はそれに言い返すことができない。改めて見てみると、手元のマドレーヌは暗黒物質のような焦げ目がついているし、ラッピングの袋にも皺が寄ってリボンなんて猿代の指摘どおり固結びだ。一緒に作ったはずの友人たちのは、綺麗なキツネ色の美味しそうなマドレーヌだったのに。

は不器用だからな」

そう、鷲尾の言ったとおり、私は手先がとても不器用なのだ。お菓子作りなんて上手くいったためしがないし、今年のバレンタインも手作りチョコに挑戦してみたものの、見事に失敗して結局は既製品を渡すことになってしまった。赤葦はそれでも嬉しいなんて言ってくれたけれど。

「とりあえず料理はダメだよなぁ〜いつだったか赤葦に弁当作ってきてたけど、中身おにぎりだけだったもんな」

「うっ…」

思い出したくない出来事を話題に出されて、私は言葉に詰まるしかない。付き合い始めた頃、赤葦にお弁当を作ろうと張り切ったはいいけれど、卵焼きも唐揚げも全部焦がしてしまい、中身はおにぎりだけになってしまったのだ。そのおにぎりだって綺麗な三角を形成することができなくて、歪な形になってしまった。

「じゃあ、裁縫は?」

「……この前、赤葦にボタンつけしてもらった」

「あ、洗濯はできるだろ?」

「………洗濯ものを干したら皺だらけになって、アイロンかけたら火傷した」

「そ、掃除ならどうだ?」

「…………片付けられない女って私のことだと思う」

「「「……………」」」

フォローが見つからないのか、木兎たちは口を閉じてしまってシンとした沈黙が辺りを覆う。私も改めて家事全般ができないという現実を突きつけられて、気持ちは落ち込む一方だ。

「やっぱり赤葦も家庭的な女の子の方がいいに決まってるよね…」

ポツリと呟いた自分の言葉が重くのしかかる。彩り豊かなお弁当とおいしいお菓子が作れて、ボタンが取れたりしたら手早く付けてあげられるような、そんな女の子に私もなりたかった。手の中にある焦げたマドレーヌが急に恥ずかしくなる。どうして、こんなものを彼に渡そうと思ったのだろう。

「……帰る」

「え、でも赤葦にマドレーヌ渡すんじゃねーの?」

「よく考えたら、こんなもの渡せないよ」

そう言って笑って見せると、木兎たちは複雑そうに私の手の中を見た。力を入れすぎたのか、いつの間にかマドレーヌの袋はグシャグシャになっていた。どうせ、初めから綺麗にラッピング出来ていたわけじゃないから、気にもならないけれど。悔しくて情けなくて、ツンと目頭が熱くなるのを必死で堪えた。ここで泣いたらみんなに迷惑かけるだけだ。

「じゃあね」

赤葦に会ってしまう前に早く帰ろう。そう思って、私は立ち上がって体育館の扉を開いたのだけれど、タイミング悪くそこに赤葦が現われてしまった。思わず見上げてしまった私と赤葦の目が合うと、彼の普段は無気力気味な目が驚きに満ちていく。私がここにいるのは珍しいことじゃないのに、どうしたのだろう。

「誰に何されたんですか」

不思議に思っていると、赤葦が急に私の両肩を掴んで、なんだか少し怖い声でそう聞いてきた。何のことか分からずに黙ったままの私に、赤葦は苛々を募らせているように見える。

「木葉さんですか?それとも木兎さんですか?」

「なんで俺と木兎限定なんだよ…」

後ろから木葉の不貞腐れたような呟きが聞こえると、赤葦はそちらをキッと睨みつけた。彼が先輩に向かってそんな態度をとるのは珍しくて、本当にどうしたというのだろう。赤葦はちゃんと先輩を敬える礼儀正しい子なのに。

「誰がさんを泣かせたんですか」

「え…」

そう言われて、私は慌てて自分の顔を触ってみたけれど、涙なんてどこにも流れていない。確かに泣きそうにはなったけれど、ちゃんと我慢したのだから。

「赤葦、私泣いてなんかないよ?」

「泣きそうな顔してるくせに何言ってるんですか。さんにこんな顔させたヤツは、たとえ先輩でも容赦しませんよ」

前半は私の頬を撫でながら優しく、後半は私の背後にいる三年生たちに拳を握って見せながらそう言った。不謹慎だけど、私のために怒ってくれる赤葦が嬉しくて恥ずかしくて照れてしまう。

「おい、!照れてないで誤解とけよ!」

木葉の声にハッとして、私は赤葦に向き直る。未だに眉間に皺を寄せている赤葦に真相を説明するため、帰ろうとしていた足を回れ右して体育館へと戻った。その隙に手にあったマドレーヌをスカートのポケットへと隠す。

「別に木葉たちに何かされたわけじゃないから。だから、怒らないで?」

「じゃあ、どうして泣いてたんですか」

「それは、えっと…ちょっと自分の不甲斐なさを実感しまして」

まさか家事全般ができない自分に落ち込んだなんて、そんな格好悪いこと言えないから、理由はそれとなく濁してみた。しかし、その答えがお気に召さなかったのか、赤葦は私の腕を掴んでずいっと距離を詰めてくる。ちょ、近い!

「あ、赤葦!もう少し離れて…!」

キスできそうなくらいの距離に自分でも顔が赤くなるのが分かる。離れてほしいと言ってみても、赤葦がそれを聞き入れてくれる様子はなく、ただジッと私を見つめてくる。恥ずかしさで息ができなくて、そろそろ酸欠になりそうだなんて馬鹿なことを考えた。

さん、俺に隠し事するんですか?」

「……っ」

「俺には言えないことなんですか…?」

そんな言い方はずるい。だけど、これだけは言えない。言いたくなかった。どうやって逃げようかと頭をフル回転する私に助け船を出したのは、先程まで疑われていた木葉だった。

「あー…赤葦、その辺にしとけ」

「そうだぞーお前、ここが体育館だってこと忘れてね?」

小見にそう言われて私も周りを見渡してみれば、顔見知りの部員たちがササっと顔を背けた。みんな顔が真っ赤に染まっていて、なんだか明日から顔を合わせるのが気まずくなってしまいそうだ。

「そーだそーだ!堂々とイチャつくなよ!だいたい、は料理できないって落ち込んだだけだし!」

「ちょっと木兎!」

せっかく誤魔化そうとしてた事実を木兎が大声で暴露してしまった。木葉たちは「あーあ…」と憐れんだ目で私を見ている。赤葦はというと、目をパチクリさせて「料理…?」と呟いていた。これはもう、隠し通せない。

さん、料理が苦手なのを気にしてるんですか?」

「……料理だけじゃない。お菓子もまともに作れないし、裁縫もできないし、掃除も洗濯も苦手」

自分で言いながら、また泣きそうになって俯く。こんな欠点ばかりを晒して、赤葦は呆れてるんじゃないだろうか。そう思うと、彼の顔を見ることはできなかった。何も言わない赤葦に、沈黙を嫌った私の口は勝手に言葉を紡いで、聞きたくもないことを聞いてしまう。

「赤葦だって、私みたいな女子力ゼロの女より家庭的な女の子の方がいいでしょ…?」

答えを聞くのが怖くて耳を塞いでしまいたいけれど、私の腕は赤葦に掴まれたままだから、それすら叶わない。ジッと判決が下るのを待っていると、頭上からは大きなため息が聞こえてきた。やっぱり赤葦も呆れてるんだ…今すぐここから立ち去りたくて仕方なかった。

だけど、次に訪れたのは温もりだった。腕を引かれて落ち着いた先は赤葦の胸板で、背中に腕を回されて髪を撫でられる。耳元で大好きな声が優しく囁く。

「家事はできなくても、さんは俺のハートを掴むのが上手ですから安心してください」

「え…そうなの?」

「料理も裁縫も苦手なのに、弁当作ってくれたり手作りのお守り作ってくれようとしたり、そういうところ全部が愛しいと思ってます」

「ちょっと…お守り作ってるの、何で知ってるの!?」

頑張る赤葦を応援したくて、こっそり作り始めた手作りのお守り。ユニフォーム型に切ったフェルトを縫い合わせるだけのものだけど、私には難易度が高くても既にいくつも失敗している。いつ出来上がるか分からないから、赤葦には内緒にしてたのにどうして知っているのだろうか。思わず顔を上げたら、すごく優しい顔をした赤葦がいた。

「マネの先輩たちが教えてくれたんですよ。他の人たちのは自分たちが作ったけど、俺のはさんが頑張ってくれてるからもう少し待ってあげてって」

あいつら、秘密って言ったのに…!今度絶対何か奢らせようと心に決めていたら、「さん」と赤葦に名前を呼ばれて、顔を上げると両頬を大きな手に包まれた。そのまま、ちゅっと額に口付けられる。

「誰が何と言おうと、俺にとってはさんが理想の恋人なんです。だから、一人で泣いたりしないで」

「ありがと…私も赤葦が大好きだよ」

「じゃあ、そのポケットに入ってるマドレーヌは俺にくれますよね?」

「え!?」

唐突な発言に驚く私に、赤葦は微笑んで右手を差し出してきた。なんで、私のポケットにマドレーヌが入っているのを知ってるんだろう。しかし、これは渡せない。味もさることながら、ラッピングだってグチャグチャにしちゃったし。

「いや…これはダメ。ちゃんと練習して、今度はもう少しマシなの作ってくるから」

「俺はそれが食べたいんです」

「でも、」

さんが俺のために作ってくれたんでしょう?」

全く引く気のない赤葦に観念して、私は渋々ながらポケットから取り出したマドレーヌを赤葦の手にのせた。受け取るや否や、赤葦は嬉しそうに固結びされたリボンを解いて、焦げ目の多いマドレーヌを一つ口に入れる。マドレーヌが飲み込まれていくのを恐々と見守っていると、赤葦はポンと私の頭に手を置いて、子供を褒めるときのようにポンポンと撫でた。

「ちょっと焦げてますけど、美味しいですよ。さん、少し上達したんじゃないですか?」

「ほ、本当!?」

後ろから「いやいや…」「赤葦、に甘すぎだろ」「リア充爆発しろ」とか聞こえるけれど、私は赤葦に褒められたことが嬉しくて外野のヤジなんて右から左に抜けていくだけだ。結局、赤葦はその場でマドレーヌを全て平らげてくれた。

「ごちそうさまでした」

「うん。食べてくれてありがとう」

なんとなく見つめあって、いい雰囲気になりかけたところにワザとらしい咳払いが聞こえてきた。振り向くと、木葉が腕を組んでこちらを見ている。

「お前ら、イチャつくならよそでやれ!」

「男の嫉妬は見苦しいですよ、木葉さん」

「なんだとコラ!」

言い合いを始めた赤葦と木葉に笑って、私は立ち上がる。もうすぐ練習が始まる時間だし、ここに居座るわけにもいかない。

「赤葦、頑張ってね」

彼のTシャツを軽く引っ張って、私は赤葦の頬に軽く口付ける。不意打ちに驚いたのか、珍しく顔を赤くした彼に満足して、今度こそ私は体育館の扉をくぐった。早く帰って、お守りを完成させなくちゃ。きっと嬉しそうに受け取ってくれるだろう赤葦を想像して、私は一人笑みを浮かべながら学校を後にした。









               理想の恋人